今日の仕事は抜びょうでした。今いる場所から、函館まで一昼夜かけて移動するからです。主機を朝ごはん食べてからすぐかけて、船の中でアンカーチェーンを畳む人と甲板との意思疎通をする仕事でした。この前と同じです。 その際に急いでハッチの中に入った人がいて、その周りに突っ立っていたところ、ピンを入れろって怒られました。ハッチを開けた時は逆に閉まらないようにピンを指すのが基本らしいです。何故なら指を落とした人がいままでにいたからだそうです。 今度からは気を付けたいです。抜びょうをするとき、アンカーチェーンがねじれたらしく何度かレッコして、巻きなおしていました。なので、前回より長時間でした。 その後のワッチで主機と補機両方かけた状態での日誌の記録を取りました。すると、7割くらいはメータの場所がわかったので、あとちょっとでできるようになりそうです。
そして、この船ではじめて長距離を移動しているので本格的に航海が始まった感じが出ました。やっぱり海はサイコーって感じですね。夕食後に外に出たら、周りに陸が見えなくなってネットも通じなくなっていました。
今日は、先輩とのおしゃべりで私の家族の昔話をしました。
私は、中学受験をして、私立中高に通い、大学も仕送りは無いものの学費を払ってもらったので、それだけを見るとよさそうに見えるのですが、私にとってはあまり感謝が出来ない家だな。と思っています。
何故なら、家族関係に長い間悩まされたからです。主観的には嫌なことは分かるのだけれど、なかなかそれを他人に伝えるのが難しくて、昔客観的な指標を混ぜたエピソードを作ったことがあります。それを紹介します。
4つ鍵empat kunci
私が大学1年生の頃の話です。私は家の鍵を4つ持っていました。それは、父の家、実家、母の家、私の大学での寮。この4つの鍵です。
まず、私が高校2年生の10月、両親が離婚しました。母親の都合での離婚だったので、実家の権利は父に残しました。しかし、離婚した夫婦が同棲することは叶わず、まずは父親が家を出て行きアパートを借りるようになりました。
それから、月1度は父と食事に行くというような関係性になりました。
次に、私の受験期での引っ越しをためらった母親が私の大学合格を機に、実家からたかだか徒歩10分のところに家をローンで買って済むようになりました。父親が実家の権利を持っていたからです。
そして、母がいなくなった後の実家は父親が賃貸にするのに時間がかかったようでなかなか売りに出されず、兄が友達とのたまり場にしていました。
そのため、大学1年生の頃の私は、大学での寮を含め4つの帰る場所がありました。
家族から家関連の相談や会ってくれなどの連絡が来る日は必ず頭痛がしていたことを覚えています。
すぐにまとめられない家族がいることが恥ずかしいし、 いろんな人にいろんな方向性の期待をされるのが大変なんです。
この話は鍵が4つという具体的な数値があるうえ、「家族離散=不幸」という共通観念に触れるので分かりやすいです。
この話の結末は簡単です。大学2年生の1月に父親にNGを出して会うのをやめて、実家を賃貸に出し、鍵が4つから2つになって大幅に悩みが小さくなりました。
しかし、分かりやすさに欠けるものの一番大変だったのは中学3年生から高校1年生の時だったと思っています。何故なら、私にとって家族は分裂していた方が自然な状態で、一緒にいた時の方が窮屈な感じだったからです。
その時のエピソードを記してみます。
ドア前で待ってる謎のガキ
中学3年生の頃から、他人と正面から鉢会いたくなくて、駅から下校の時は必ず人通りの少ない通りを俯いて通っていました。
そして、マンションも地下入り口から入り、人がいたら、その人がオートロックのドアを開けてから15秒くらい待ってエレベーター前に人がいなくなってから入るようにしていました。そして、廊下の中腹にある非常階段を使って家まで帰っていました。
この習慣は高校1年生でコロナ禍で休校になるまで続きました。
一度、ドア前で待っていたら、スーツに革靴を履いた入居者から「追随入館じゃないですか。」と怒られて、鍵を見せたら不満そうに納得してくれましたことがありました。
このとき、自分にはこれから「大人」になって就業するのは無理なんだろうなと思いました。
まぁ人に話せるようなエピソードではないですね。何が大変で、どうしてこの心情に至ったのか分かりにくいからです。
その時の私の様子を説明します。睡眠不足、家庭の不和、学校への不適応がみられました。
まず、実家では兄と二人で二段ベッドで過ごしていたのですが、兄は私が寝たいと思って22時ごろに電気を消していても大きな足音で部屋に入ってきて
夜遅くまでライトをつけてパソコンを見ていました。そのため、私は睡眠バランスを崩しがちでした。当時私は言葉での意思表示がまるっきり出来ない子どもだったので、二段ベッドの上から、そのライトのスイッチを消したり、ライトを隠したりするなどして意思表示したのですが、消してもらえませんでした。
そのため、眠りへの困難が出るたび兄への憎しみが高まっていました。家を出て精神科に通い、デービゴをもらえるようになる大学2年生になるまでほとんど口を利かないような関係でした。
そして、母に一度言葉で暗くないと寝れないと言いましたが、他人の感覚と自分の感覚との違いを理解するのが難しいタイプなので、
「この明るさなら別に寝れるでしょ」と一蹴されてしまいました。私が不調を訴え精神科に行きたいと言った時も、「精神科の薬を飲むと頭がおかしくなる。」と一蹴されました。自分の気持ちは取り合ってもらえないという感覚になりました。
次に、両親の関係もひどく、とくに母から父への虐待でストレスが大きかったのもあると思います。父が立てる物音も聞くのが嫌で何度もけんかしており、父が11時ごろに家に帰ったとき、まるで泥棒のように静かに家に帰っていました。
今から考えても、不自然なやり取りだと思っています。
また、学校生活も上手く行っていませんでした。中2の幾何がエウクレイデスの公理系をベースに授業をすすめるような進学校に入ってしまったので、なかなか周りの学業のレベルについて行けませんでした。
そこで、教員への不信感が高まっていきました。何故なら、「授業が分からない。」と私が先生に言ったら「今は、高校2年生のレベルをやっている。高校生になったら、同じことを繰り返すから分かるようになる」と言われたり、
別の先生に授業中問題だけ配られたとき、「どうすればいいかわかりません。」と言っても、「これは簡単なので出来ますよね。」という感じで取り合ってくれているように感じにくいという状態だったからです。
そして、クラスメイトとの関係も上手く行かず、成績を自慢してくるイヤミな生徒が授業中うるさくて、先生も止めてくれなかったので、机をひっくり返して応戦したことを覚えています。
そんなこんなで精神的な不調がいくつも現れるようになりました。例えば、文章の読み書きが遅くなる、同じ嫌な気持ちを繰り返して気持ち悪くなる、対人恐怖が強くなる。などです。
この様子を説明してはじめてさきのエピソードは理解できるかな。と思います。人混みを避けて下校したり、エレベーター前に人がいなくなるのを待っていたのは全て人と鉢会うのを避ける為です。また、怒ってきた相手の恰好に注目して「大人」 との隔絶を感じていたのは、イメージしていた「大人」そのものなスーツに革靴の入居者が、私を正すべき「犯罪者」のように扱ったと思っていたのだろうと思ったからです。
分かりにくいから困難が軽くなるというのは、一般にあることでこの前地上波で「私は、趣味が散歩で20㎞程歩くことがある。」とメンヘラ系のアイドルが言っていました。本人も出演者も深刻さを理解していないんです。
というのも、困難が強い人の適応として、敢えて体に負荷をかけることをやりがちなんです。その論理が知れ渡っていないだけなんです。
ドア前時代を乗り越えた方法も伝えられればいいんですが、大学受験を乗り越えたり、同人誌を書いたり、いろんなイベントが必要でとにかく分かりにくいんです。 今度それについて、丁寧に言葉にしてみますね。今日は、船酔いが酷くて頭が痛いので、もう終わっておきます。謎のガキ時代とはうって変わって、全てをひっくり返して船に乗っているんです。
今日本当は、お風呂掃除の当番だったのに全然当番表を見ていなくて、朝ごはんを食べたあとに急いでやりました。これからは、カレンダーに書いていこう。と言われて、気を付けたいと思いました。 そして、機関長の苗字を間違えてしまい恥をかきました。自分は母音で名前を覚えているとよく思います。 今日は停泊時の当直の当番を決めました。その仕事は9時から21時と次の日の朝6時があり、3時間ごとに記録を取ったり掃除をしたりする仕事で結構拘束時間が長いです。その分ずっと機関場にいる必要はないです。
今日の仕事は、サデ曳きで使うクレーンやウインチの点検でした。甲板員がメインで機械に注脂していました。
グリースポンプという道具を初めてみましたが、中にグリースを詰めて機械の中に注ぐために使う道具でした。
私は甲板での仕事はほとんどありませんでしたが、久しぶりにずっと立っていたので疲れたり眠くなったりしました。
やったことは、機械からカバーを外したり、点検が終わりカバーを元に戻した時くらいです。
一応、機械を動かすために発電機を並列運転させる仕事を機関場ではしました。
今日は、以前も書いた船乗りになって起きたことの続きを書きたいと思います。
新聞の1面に載った
船乗りになって面白かったことの一つに、新聞の1面に載ったことがあります。
参加した近海マグロ漁船操業体験プロジェクトについての記事が三陸新報の1面に掲載されて、私の操業への意気込みのコメントが実名付きで載りました。
近海マグロ漁船操業プロジェクトとは、3人程度の応募者を集め、サメやメカジキを狙う近海マグロ漁船での体験操業を1か月ほど行い、正規雇用で給料も出るというインターンシップ的な企画です。
何故、新聞の1面に乗ったかと言うと、このプロジェクトには二重の新規性があったからです。
第一に、沖に長期間出る漁業というのは労働内容がブラックボックスになりがちで、船員保険に加入が必須なのもあり、なかなか体験のハードルが高かった。しかし、それを行ったこと。
第二に、実習船というのは非常にコストのかかるもので、商船三井などの大企業しか持っていなかったが、それを気仙沼のかなえ漁業という小規模な会社が行ったこと。
だから、この記事が1面になったのだと思います。私は、乗船の際「1航海にかかる費用は約2000万円、体験でペースを落とすと水揚げは700万円ほどになり、会社の手出しは1000万円を超える。その覚悟をもって取り組んでくれ。」と社長に激励されました。
この企画には洋上での実習に加えて、出船の前に5日間船の上で寝泊まりして、その間に社長から会社概要の説明、Japantunaの吉田さんから危険性や年収の説明、日本人乗組員との顔合わせ、漁労作業の練習、会長からのメンタル指導などが行われていました。 取材が入ったのは、出船の前日でした。少し面白かったのが、女性記者からの取材を断ったことです。何故なら私が乗った漁船は女人禁制の船で、乗組員の家族ですら船に乗ることが出来なかったからです。実際船に乗って受けた囲み取材は男性記者だけでした。 また、記事の中で、私が茨城県出身と記載されていますが、それは誤りで私の出身は千葉県市川市です。他の体験乗船者と間違われたのだろうと思います。
この新聞の1面に載ったことでありがたいことが起きました。 それは、今の仕事に繋がったことです。というのも、私が近海船の継続乗船を熟考の末諦めた時、近海マグロ船が所属する宮城県北部船主協会で私のことが新聞の記事とともに話題になったらしく、漁船ではない今の仕事を紹介してもらえました。 お陰で、近海船と異なり安定した睡眠時間と余暇の時間がある労働環境になり、今このブログを書くことが出来ています。漁師を諦めた理由の一つに、執筆活動に未練があったというのがあったのですが、 今の生活は執筆活動を優先する方向性ではかなり理想的な環境で、満足できています。なので、船の仕事を始めてから、まわりが自分の人生を応援してくれているように思うようになりました。
最後に一つ面白い逸話をば。体験操業が終わり気仙沼の骨董店になんとなく立ち寄って店長と立ち話をしたときのことです。 店長は、かなり見る目がある人で、私が漁師であると伝えると、「君みたいな人の話を聞くタイプの子が漁師やってるっていうのは凄いなぁ。」「ため込むタイプだから、海で人を殺すようなことがないように。」「君は三陸新報に載って有名人になるんじゃない?」 と言われました。その際に、一緒にいた体験乗船者に「もう載ってます!」と突っ込まれていました。
今日の仕事は、ボートに実際に乗って操縦訓練をすることでした。甲板機械は、資格が無くても乗船できるきまりですが、今日は小型一級船舶を取得している人が訓練しました。
先輩機関士がネタにしていた航海士は、頼りない動きながらも大抵のことが出来るのに対し、ネタにしてはいけない感じだった甲板員は不器用さが目立つ感じでした。
ネタにしていいかしてはいけないかは、結局仕事できるかどうかと言うことかもしれないなと思いました。
そのあとは、機関室に戻って機関場の海水ポンプに詰まっていた海藻を除去する仕事をしました。結構大変で、1号発電機を始動、2号発電機を停止、海藻を除去、2号発電機を始動、1号発電機を停止。
4回も機械を触らないと終わることが出来ませんでした。海水ポンプの圧力が下がると発電機が過熱してしまうらしくて、この仕事は結構重要だそうです。機関士は必要ですね。
今日の仕事中に、「次の停泊地の函館でソープにでも行くのか?」と言われました。私は、「給料なくなっちゃいますね。」と答えました。すると、「まぁ3万円くらいだ。」と言われました。 男が多い職場だとありがちな会話ですが、こういう何気ない場面で自分の性について考えることがよくあります。
今日は、性に関して、人生で一番不思議だった体験を綴ろうと思います。あまりにも衝撃的な出来事だったので、実は詳細な記録を残しています。
- 大学2年生の4月22日、非常に疲れていました。月曜日から金曜日まで毎日対面授業が晩まであったうえ、土日には高校時代の友達を迎えたりしていました。疲労とは裏腹に自意識がどんどん高まっていました。「周りの様に着こなせていないのがつらい。」 「好きな音楽を聴いてるときしか安心できない。」と思っていました。
- 4月23日には、オシャレをするために表参道に友達を連れて行って結局何も買えなくて落ち込みました。
- 4月24日には、授業で自分だけ分かったことがあった時、普段は周りに不満を貯めるところなのに、むしろ自信が満ち溢れてきて、ここは楽だ!と思いました。
- 4月25日には、クラスにいた初恋の女の子に話しかけました。肌を間近で見た時、今までとは違う、もっと細かなところまで見えてくるような感覚がありました。 メイクの仕方や表情から、誰のためにこうしているのか、どんなことを考えているのかまで、なんとなく伝わってくるようでした。 他の子に対してもネイルの塗り方に注目したり、女の子を見る目が変わっているなと思いました。
- 4月26日には、授業が終わって疲労困憊で2A棟から一の矢学生宿舎まで歩いているときに、猛烈な自信と陶酔に包まれました。
- 4月27日に起きた時、鏡を見て自分の体に違和感を感じました。自分の顔じゃないように感じたからです。
人生で初めて男の体あんまり好きじゃないんだよな。という感情が湧きました。そして、NMIXX「Young, Dumb, Stupid」のMVを見て、自分の部屋を同じようにカラフルにしたくなりました。
自分と違う人格が体を操縦している感覚に陥り、目に見えるものすべてが別の角度で見えるようになりました。たとえば、いつもは理解できる数学の授業が、全く理解できず、自分の爪を眺めるようになりました。
それと同時に、草花が非常に色鮮やかに見えるようになりました。そして、今まで大学で感じていたような、コンプレックスや陰鬱な感じが一切消え去ったように感じました。 - 4月28日には、その違う人格に言われたことをこなしていきました。例えば、「マスクとイヤホンとメガネはどれか一つにしろ」と言われたのは明確に覚えています。その甲斐もあってか 他人からの反応も変わり、先輩女子二人が顔を見合わせて「イメチェンした?」と聞いてきたり、普段なら話しかけてこないような美人のクラスメイトから「すみません自分ばっか喋っちゃってトイレ行きたかったら行ってください」と言われました。
- 4月29日には、PCの壁紙を変えました。大学のスケジュールを壁紙にしていたのですが、猛烈に気に入らなくなり、さきのMVのスクリーンショットを壁紙にしてスタートバーもピンクにしました。
また、普段は絶対にしない自分の学歴を鼻にかけるような投稿をSNSでしてしまいました。自分が男の体を好き勝手動かせることが嬉しくなってしまったようです。 - 4月30日に、髪を短くしました。途端に、別の人格の影響がが小さくなりました。豊かさや艶が失われたように感じました。
その一週間は女性の人格と同じ体での時間を共有したことで、まるで自分と女性が一体化しているような非常に官能的な気分でした。そのせいか、特別な関係性などほとんどの精神的なエロいことへの憧れがなくなりました。
同じ場所に精神がある事よりエロいことは無いですからね。「花魁系JK」という漫画があるのですが、主人公が女性であること以外ほとんど同じことが描かれています。
また、この事件があって半年ほどは、「入れ替わり癖」のようなものがついてしまい、色鮮やかなものやキレイな景色を見るたびに、少しの時間人格が入れ替わることがありました。
その間は、物の見方が変わり自分の考えを超えた他者の考えがつぎつぎ浮かんでくるので、ものすごく不思議な気持ちになっていました。
この事件の私の解釈としては、統合失調症や解離性同一性障害のような病気にするほどではないと考えています。大学入学で異性との交遊で高まる自意識と、今まで無茶して作ってきた陰キャオタクのような人格との対立によって生まれたことだと思っています。
疲労で理性が弱まった時に自分の内側で抑えてきた女性的な要素が爆発して、数日体を乗っ取るところまでいったのではないかと思っています。
自分の性について考える時、必ずこの経験を思い出します。なぜなら、この経験を通じて自分は男だ!という確信がなくなってしまったからです。 取り敢えず、自分の体の強さを信じたり、船乗りだったり、男性として生きていますが、精神面では女性の視点が混じります。 フーゾクを利用する際にも、キャストの負担を考えてしまいがちです。提供されるサービスをみる男性的な基準ではなく、キャストの負担とその対価をみるキャスト側の基準で考えています。 例えば、サイトにキャストの顔を公開しているようなフーゾクにはいかないとか、ピンサロは性病感染リスクが高いうえに、対価が安すぎるから行かない。などと考えています。
乗っ取り経験は自分にとって重要な判断や感情にも強く結びついています。例えば、留学の行先をジャカルタにしたのは、この女性人格が同じ年の8月ごろに表れ、「ジャカルタ」と口にしたからです。
また、大学2年生がとてつもなく辛かったのは、この経験を誰にも直接話せなかったことことが大きいです。というのも、この話はなんとなく仲の良い女性に話したかったのですが、そういう人が一人もおらず最初に話せたのが、その次の年の3月。11カ月かかりました。
大学3年生の7月に、MMさんにも話しました。おしゃべりな私がこんな経験を誰にも話せないなんて辛かったなと思います。
一応、男性の友達(またブログで紹介します。)の雑誌に事件についてすぐ寄稿して、5月に同人出版してはいます。だから、このように詳細な記録が残っているのです。
対面で言いたい気持ちは晴れなかったですが、その友達がいなければ、この記憶も流れていたのかな。と思うと、彼は人生にとって重要な人物であったと思います(その人についてもまた書きます)。
今この日記の形で、自分の複雑な姿をある程度わかりやすく読者の方々に紹介できるのは、自分をある程度理解し、認められたからかな。と思っています。 何故なら、大学2年生4月当時のブログは愛読者から「俺と違う文法使ってる?」と言われるほど難解なもので、自分でも話す相手を選ぶほど受け入れがたいものであったからです。 笑い話にはならないですが、興味深い話ではあるのではないかと思っていますよ。
今日の仕事は、朝ごはんを食べた後の掃除でした。朝ごはんを食べた後すぐに掃除だと知らなかったので、部屋の前の靴を片づけるのを忘れました。次から気を付けたいです。
今日は、機関士に、うちにある二つの発電機は容量が同じなのに、どうして電流計のスケールが違うのか。と聞かれました。GPTで調べたら、変流器が違うか、定格電流が違うか。と言われました。
新しい船は兎に角寒いんです。部屋のエアコンは、切ることが出来ない設定になっていて部屋の温度が20℃程度です。毎日お腹の調子が悪くなりがちです。
最近は、次のような対策をしています。
- 部屋のエアコンに、養生テープを貼って、ベッドに風が来ないようにする。
- 長袖を履いたり、着替えをおなかの近くにおいて、防寒をする。
- リキュールをケトルで沸かしたお湯で割って飲んで、体を発熱させる。
- ウォーターサーバーから出る水を直接のまず、給湯器のお湯と混ぜて飲む。
- 掛け布団や上着を会社に送ってもらって、追加の対策を準備する。 9月の初めに川崎伽鳳占いに行った時、「お腹を冷やさないように」と言われましたが、それが的中していたのかなと思います。
私は、2019年5月にブログを始めてから、最初は週1更新。2021年の8月頃からは毎日更新で、ちょくちょく休むときはあっても7年間以上続けています。
自分に向いている事なので、続いているのですが、最近は続けることについて、よく考えるので今日は続けることをテーマに、書きたいなと思います。
まずは、続けることの怖さについてです。2026年の7月に近海マグロ漁船に挑戦した時思ったことです。15回操業して毎日ギリギリの戦いでしたが、何とか仕事はこなせそうでした。そして、今までの人生で一番楽しい活動だと思いました。
しかし、続けられると思えなかったんです。継続乗船するか迷っている旨を社長に打ち明けたとき、「1年、いや1年と言わず、3年乗る覚悟が出来たら受け入れる。」と言われて怖気づいてしまいました。
何故なら、主体的なことを1年も続けられた経験がなくて、自信がなかったからです。高校時代など、マグロ漁船よりキツいことはありました。マグロ漁船では涙が止まらなくなったことは1回だけでしたが、
高校1年生の頃は毎日でした。ただ、それは家庭や自分の特性など避けようのないことだから耐えられたのだろうと思っています。仕事や趣味というのは、避けがたい環境への消極的な態度と異なり、自分で選んで、やめることができるものですから、
主体的に取り組むものです。
下船当時は新卒だったのもあり振り返ってみると、それまでに主体的に頑張ったことはどれも1か月、長くて2-3カ月程度でした。だから、近海マグロ漁船の年単位での過酷な挑戦を前にイメージがわかず、怖気づいてしまいました。力不足を
痛感しながらマグロ漁船を降りた時は、「まずは、続けられる仕事をなんとか見つけたい。」と心の底から思ったのでした。
怖いもの知らずだった私が続けることを怖がる理由を考えると、続けると他のことが出来なくなるからかな。と思います。というのも、いくら楽しく個性を発揮できると言えど、漁師活動を頑張って続ければ、今の様に文章を書くことが出来なくなってしまいます。
可能性を消すほど頑張っていない執筆の世界の可能性が少なくとも数年は消えるのが耐えられなかったんです。可能性が断たれるのが怖い。これが、僕が継続に対して怖いと思った本質的な理由です。
続けることというのは、他の可能性を捨てる事でもあるんです。目標を達成したり、人生を表現するために、一つのことに専門・高度化することでもあると思っています。
次に、続けることのよさについてです。
ただ、漁船では繰り返し・継続して行う事のよさを学ぶことも出来ました。マグロ漁船の漁労作業は毎日同じです。それを、長時間労働のなかでこなしていくうちに、最初は難しい。力が足りない。やり方が分からない。と思っていた作業について、
数日でみるみるうち、できるようになったんです。例えば、ブランをきれいに畳む仕事は、最初は結び方も、針のかけ方も時間がかかったり引っ掛かったりしましたが、操業も10回を過ぎると、普段の操業と同じペースでできるようになりました。
時間にして、100時間くらいでしょうか?それくらいやれば、むつかしいこともできるようになるなとたった一か月の航海でしたが、思えるようになりました。
今は、マグロ漁船の様に過酷な仕事ではありませんが、その感覚を応用して、自分の欲しい技術を手に入れる事を考えています。今欲しいものは、自分の文章力と、画力です。
だから、今の職場で仕事をする合間に、この日記のような執筆活動やお絵かきを続けていきたいです。
また、自分の身になるかどうか。だけではなく、制度上でもメリットがあります。
この職場を3年続ければ、乗船履歴がついて、資格取得につながるキャリアアップが見込めます。キャリアについても、他の可能性を数年は捨てることで、上昇が見込めます。
今の仕事は大変な事は殆どないからこそ、続けることに向き合うには一番いい場所なのではないかと思ったりします。
最後に、続けることの別の側面についてです。
目標を達成するため、人生を体現するための手段として間口を狭める。という継続について書いてきました。私は、続けることにもう一つの面があると思っています。
それは、環境におかれたときの消極的な反応を繰り返すことで、いつか大きな行動につなげること。だと思っています。
たとえば、不満について考えると分かりやすいです。たとえば僕も、大学2年生の間ずっと孤独感や大きな不満を学生生活に感じていたことで、大きく精力を傾けないとできない留学に向き合うことができました。
環境に不満がある事によって遠くへ行きたいというエネルギーが蓄えられたのだと思いました。その間に、めっちゃキレイな女の子にモテて楽しかったり、心地よい居場所を大学に見つけて不満が解消されていたら、
留学をするのが億劫になっていたかなと思います。つまり、消極的な反応として、同じ気持ちを持ち続けたことで、結果的に留学と言う行動にたどり着いたのです。
語学を継続するなど、積極的に留学に取り組んだ人と過程は違いましたが留学という同じ結果を得られています。だから、環境によって、同じ反応を繰り返すことも、継続のうちかな。と思っています。
目標を達成するための積極的な手段という見方だけではなく、環境での消極的な反応を繰り返すという見方もできるようになれば、不満をもったときにも良い結果につなげることが出来るし、「いまは継続してエネルギーを蓄えているんだ。」とポジティブに捉えることが出来ると思っています。
今日の仕事は、抜びょうでした。天候が悪いため、朝7時30から主機を動かしたのちに、ウインドラスを動かしていかりを巻き上げました。
私の役目は、アンカーチェーンの収納庫内できれいに畳んで入れる役割の機関士が「ストップ」と言ったら、甲板に伝える仕事でした。
仕事が終わり、機関場に戻ったら一等機関士が軍手を付けずにいたことについて、指導してきました。今度から気を付けたいです。
また、今日は朝から気持ちが沈みがちで、上手く喋れなかったり、うまくいかないように感じましたが、10時を過ぎるころには元気になりました。毎日同じリズムで生活するので、精神面の変化に気を遣いたいです。
先輩との会話では、大学の友人であるMMさんの話で盛り上がりました。
私の仕事は当直業務なのですが、見習い期間なので先輩機関士と一緒に働いています。その際、3時間に一度の記録業務や多少の掃除くらいしか仕事がなく、退屈です。
そこで、先輩と会話をよくします。結構論理的な先輩にダメ元で占いの話をしたら、意外と占い好きらしくて、驚きました。
そのあとは、大学の友人のMMさんの話をしました。
MMさんは、大学の同じ学部の同期で一番面白かった人です。彼女の特性を説明します。
- めちゃくちゃ美人: 身長が170㎝近くあってスラっとしててスーツパンツを着ると足が長くてすごくキレイに見えます。小顔でシャープでおでこがエロかったです。そしてオシャレでイケてます。
- めっちゃ内向的: 就職活動の面接や、大学での交流に不安がありました。言いたいことはメッセージでは言えますが、対面では何も言えませんでした。
- 世の中をなめている: その美貌からか、色んな人に助けてもらっていたのか、教育実習に行くまで本気を出したことがありませんでした。
- まじめ: 教員免許を取得したり、堅実にものをこなすことが出来ました。それに加え、他人に合わせなきゃという意識が強かったです。
MMさんと仲良くなったのは、大学2年生の頃、一緒にラーメン屋さんに行ったのがきっかけです。私は女性の友達が本気でほしかったので、MMさんと同じ苗字の有名人を調べたりして食事に挑んだのを覚えています。
その時の反応は、「私の母と同じ名前だ。」でした。
MMさんが面白いのは、そのツンデレ加減です。なんか、私と一緒にいると恥ずかしいのかメッセージでは「キモい」「生きていて恥ずかしくないの?」とかひどいことを言ってくるのですが、
食堂などで会うと、「一緒に食べる?」と誘ってきたり、授業で隣に座ってきたり、同じバイト先で働いてみないか?と言ってきたり、と言う感じで落差が凄く親密な感じです。所謂悪友という関係でしょうか。
特に面白かったのは、私が、筑波大学の交友関係へ不満をこぼしてジャカルタに留学に行った際、私がジャカルタの女の子は筑波大学と違って優しい。と言ったら、
「日本帰ってきたらまたうつ病始まるんだから、楽しんでおきな。」と返信がきたことです。そのとき、私がうつ病になるのは確定なのかよ!とつっこみたくなりました。
(実際にうつ病のようになった話は、後日書きたいと思います。)
私は関係の中で、MMさんに「美貌があって頭もよくて羨ましい。」とずっと褒め続けていました。
MMさんの彼氏と3人で食事に行った際にもそのように言っていたので、最終的には、MMさんの彼氏(3つ上の院生)から脅迫文が届いて、さすがにメンドクサイなと思ってやり取りを控えるようになりました。
(卒業式で、向こうから体を近づけて一緒に写真を撮ってくれたので、MMさん本人に嫌われてはないかなと思っています。)
こんな感じのMMさんのツンデレエピソードを先輩にしたのですが、結構ウケて嬉しかったです。私は、ただ友達の話をしているつもりなののですが、MMさんの話はウケがいつもいいです。
MMさんについて、文章にして振り返ってみると大切なことをいくつも気付かせてもらったな。と思います。まずは、美女への過度な期待をやめれたことです。まず、中高ともに男子校だった私にとって一緒にいるだけで
「めっちゃエロい!!魅力を感じる!!」と思えるような相手と接近したのは初めてでした。「脳内で考える最も美しい存在より、クラスの女の子の方がキレイなので、毎回想像を超えてくる。」と授業にいく度に思っていました。
しかし、そのような相手が、超陰キャで、口悪くて、苦労が足りないうえに才能を活かしきれていないのを見て、美しいだけで全然ダメじゃん。と思いました。なので、眉目秀麗な女性の内面への幻想を早めに捨てることが出来ました。
そして、ある経験から、もう一つ大事なことも気付かせてもらいました。MMさんが彼氏と同棲していたことも知らないでふたりでご飯食べていた時、私が「大学で寂しいことが多い。」
とこぼしたら、「彼氏いるのに今日も朝告られちゃったんだよね。モテキ来たかも。」と返してきて、美女と親密になれるかもという淡い期待が粉々になると同時に、私の悩みと全く逆の状況を自慢されたようで、悔しくて帰って泣きそうになりました。
筑波大学で悔しいと思ったのは、それが最初で最後です。
その気持ちを分析したら、彼氏のことを1ミクロンも羨ましいと思えなくて、むしろMMさんに嫉妬していた自分に気付きました。私は「美女を手に入れたい願望」より、「美女みたいにモテたい願望」が強いタイプなんだなと気づくことが出来ました。
なお、MMさんは私の落胆をよそに、その食事の最後「沢山話せてめっちゃ楽しかった。」と言っていました。
まとめると、MMさんには、感謝でいっぱいです。というのも、MMさんとの友人関係を通じて、異性と私自身の欲望の理解を深められたからです。また、クラスの他の子にMMさんの意外な様子を共有して笑い話に出来たり、 彼氏にわけわからんことを言ってもらったおかげで、当時計画していた同人誌の執筆に火がついたからです。卒業してからも、直接のやり取りはないものの職場や雑談の場面で何故かウケる鉄板ネタとして話せることも感謝しています。
今日は、余裕があるので、もう一つ記事を書いて寝ようと思います。船乗りになろうと思って起きたことで、面白かったことの一つは第8豊清丸事件です。 大学4年生の12月ごろに伊野水産と連絡を取り、第8豊清丸への乗船手続きが進んでいました。 清水港にて、荷揚げと船内の見学もしました。
しかし、出港時期が3月のはじめと分かり、乗船を決意すれば、大学生として、卒業式に出席することができなくなると分かりました。さらに、伊野水産から12月20日ごろ、「数日以内に乗船意思を確定させてください。」と連絡が来ました。
そこで、私は教員免許を取れるかどうかという単位が出ていなかったのもあり、乗船を辞退することにしました。
それだけで終われば、普通の話なんですが、凄いことが起きました。
卒業式が近づいてきた大学4年生の3月、第8豊清丸が太平洋で漂流していた。というニュースを目にしたのです。
マグロ漁船史上でも珍しい完全ブラックアウト事件です。発電機が主機も補機も故障したようです。もし、私がこの船に乗っていれば、私は太平洋で電気が止まり漂流するという怖い思いをしていたのだろうと思いました。
さらに、この船の呪いは止まらず、漂流していた船を連れて帰ってきた海上保安庁の牽引船「ざおう」が、油補給中に流出事件を起こし、養殖業などを中心に6億円の損害を出しました。
伊野水産での仕事がなくなった時は、卒業後の進路がなくなったかのように思い、辛いと思いましたが、ニュースを見てから考えが変わり、塞翁が馬だと思いました。
また、何かが出来なかったとき、別の危険を避けることが出来たのだろう。と思えるようになりました。そして、私が船乗りになろうと思うだけで、こんなにも世界が動くなんて面白いなぁと思いました。
前の日に、喫煙所で機関長に今後の操業計画を聞いたら、朝プリントを印刷して、これからどの海域に行くのかを教えてもらいました。
操練は、 応急操舵訓練と密閉区画訓練でした。
今日は錨泊で、待機でした。そのため、朝から操練や避難訓練をやりました。操練では、舵機室に入って、電磁弁を金具で刺激して舵を動かす方法と、ハンドルを回して動かす方法の2通りを練習しました。
密閉区画訓練は、酸素計を渡されて、その起動方法や、酸素不足になると、どんな音が鳴るのかということを勉強しました。消防訓練よりかはすぐに終わりました。
その後は、ずっと監視室でおしゃべりしたり、機械について教わりました。
油を補給するタンクを切り替える方法は、三方弁の向きを変えてから、両方のタンクにつながるバルブを全開にする。その後、使わなくなるタンクに繋がるバルブをゆっくり絞める。
これで、だいたい大丈夫です。
お喋りをしていたら、3カ月くらい経ったら、4人交代でワッチを取れるようになると聞きました。それまでは、毎日先輩とずっとトークすることになりそうです。
今日は、余裕があるので、もう一つ記事を書いて寝ようと思います。
私が船乗りになろうと思ったきっかけは、YouTubeのJapantunaチャンネルの動画です。
操業中揚縄で暗い海からバンバン魚が上がってくる動画をみてからと言うもの、「これに乗らずに死ぬの?」という疑問が沸き上がり、どうしても乗ってみたくなりました。
最初に連絡したのは、日かつこと、日本かつお・まぐろ漁業協同組合という団体でした。
web上にあった応募フォームに応募してみると、手書きで熱量のあるメールが送ったアドレスにすぐ届きました。
動画でもよくラス・パルマスで船員をインタビューしている佐藤さんと言う方です。
その方に電話をしたいと言われて、履歴書もデジタルで作って送ると5社から面接希望が入りました。
今までなんとなくやっていた就活と比べると、自分の小さい動きが大きなうねりになるって面白くなってしまい、続けようかなと思いました。
つくばに富山から船会社の専務が来た
その流れの中で一番面白かった話は、富山の会社の専務が私に会いたいと、乗組員募集とは関係なくつくばに来たことです。
筑波大生御用達の、高倉町コーヒーでパスタやジュースを奢ってもらいました。
それも、大学4年生の6月下旬のこと。陸の就職ではありえない事です。
専務は、自身が親の会社の船で縄船を体験したことがあり、その体験を私に伝えてくれました。
とくに、1日目は怖いこと。揚縄が始まれば、酔いはおさまること。自分より大きな生き物を殺す感覚のこと。などを話してくれました。
そのなかで、「船乗りは自由だ。」「やってみないと分からない。」「現代の病は全てそれどころじゃなくなる。」
と激励を頂きました。そういうことを、さわやかに伝えてくれた大人がいたことで、私は希望を持って乗船を決めることが出来ました。
操練は、消防点検でした。
今日は錨泊で、待機でした。そのため、朝から操練や避難訓練をやりました。
操練では、私は消火器を持ってくる仕事をしました。消火栓を実際に使って海に放水したら、一番年寄りの人が、「消防用ホースまで出して訓練したのはこれが初めてだ。」「やる船はやるんだな。」と言っていました。
エンジンの人たちは、別に普段使ってるホースでも十分だ。と言っていました。
そして、防水用具ことポンプやホースを持って行きました。
スラスタ室で浸水という設定でしたが、場所を分かっている人がほとんどいなかったらしく、誰も来なかったです。
また、総員退避訓練では、毛布を持っていきました。
うちの船は、珍しく食事中に会話しないので、私が話題を振ったら驚かれました。
今日は、補機のゲージだけ記録すればよかったので楽でしたが冷却水入と出を逆に記録してしまいました。
近くに船が来てバトルしたことある。と言う話は聞きましたが、それも数年前。4人交代でワッチを取れるようになると、孤独な状態で任されるうえ、3時間ごとの記録や、ちょっとの見回り以外やることもないらしい。
これは、チャンスかもしれない。早く仕事を覚えて、別のことしまくりの最強人間になれるかもしれない。
少なくとも、カバー付きの本を読んだり、何かお絵かきをするくらいはわけないと思う。
今日は、体感結構疲れていて、眠い。
そして、ファーストも言っていたが、17時10分夜で、6時30朝は、結構間隔が長いと思いました。
今日は出港日でした。
朝は5時30に起きて、風呂掃除を教わりました。ブラシを使って、お風呂、それ以外はスポンジで掃除しました。金属部分を磨くと掃除をしている感じを出せるので良いと教わりました。
出船の仕事は15分で終わり、主機をみんなでかけて、9時30ごろから、15時30ごろまでワッチをしました。
基本的には防音の効いている監視室にいるので、同僚とのおしゃべりを楽しめました。
一人でワッチを取れるようになれば、12時間休憩が取れるそうですが、いまは3交代制で8時間休憩。朝から夕方まで見習いで、同僚と一緒に仕事をしています。
主機や補器がどれかくらいは、分かるようになりましたが、ゲージや計器についてはどれがどれかまだわかりません。毎日3から4回は、一緒にやれそうなので、すぐに覚えられるのではないかと思っています。
操練では、ビームを発射しました
私が乗っている船には、ビームが搭載されているのですが、それを使う時には、補器や専用の機械も起動しないと動かせないみたいです。
ゲームやアニメだと、ビームはボタン一つで打てるイメージでしたが、実際には中で機械を始動・停止させる人がいないと、ダメみたいです。