今日の仕事は抜びょうでした。今いる場所から、函館まで一昼夜かけて移動するからです。主機を朝ごはん食べてからすぐかけて、船の中でアンカーチェーンを畳む人と甲板との意思疎通をする仕事でした。この前と同じです。 その際に急いでハッチの中に入った人がいて、その周りに突っ立っていたところ、ピンを入れろって怒られました。ハッチを開けた時は逆に閉まらないようにピンを指すのが基本らしいです。何故なら指を落とした人がいままでにいたからだそうです。 今度からは気を付けたいです。抜びょうをするとき、アンカーチェーンがねじれたらしく何度かレッコして、巻きなおしていました。なので、前回より長時間でした。 その後のワッチで主機と補機両方かけた状態での日誌の記録を取りました。すると、7割くらいはメータの場所がわかったので、あとちょっとでできるようになりそうです。
そして、この船ではじめて長距離を移動しているので本格的に航海が始まった感じが出ました。やっぱり海はサイコーって感じですね。夕食後に外に出たら、周りに陸が見えなくなってネットも通じなくなっていました。
今日は、先輩とのおしゃべりで私の家族の昔話をしました。
私は、中学受験をして、私立中高に通い、大学も仕送りは無いものの学費を払ってもらったので、それだけを見るとよさそうに見えるのですが、私にとってはあまり感謝が出来ない家だな。と思っています。
何故なら、家族関係に長い間悩まされたからです。主観的には嫌なことは分かるのだけれど、なかなかそれを他人に伝えるのが難しくて、昔客観的な指標を混ぜたエピソードを作ったことがあります。それを紹介します。
4つ鍵empat kunci
私が大学1年生の頃の話です。私は家の鍵を4つ持っていました。それは、父の家、実家、母の家、私の大学での寮。この4つの鍵です。
まず、私が高校2年生の10月、両親が離婚しました。母親の都合での離婚だったので、実家の権利は父に残しました。しかし、離婚した夫婦が同棲することは叶わず、まずは父親が家を出て行きアパートを借りるようになりました。
それから、月1度は父と食事に行くというような関係性になりました。
次に、私の受験期での引っ越しをためらった母親が私の大学合格を機に、実家からたかだか徒歩10分のところに家をローンで買って済むようになりました。父親が実家の権利を持っていたからです。
そして、母がいなくなった後の実家は父親が賃貸にするのに時間がかかったようでなかなか売りに出されず、兄が友達とのたまり場にしていました。
そのため、大学1年生の頃の私は、大学での寮を含め4つの帰る場所がありました。
家族から家関連の相談や会ってくれなどの連絡が来る日は必ず頭痛がしていたことを覚えています。
すぐにまとめられない家族がいることが恥ずかしいし、 いろんな人にいろんな方向性の期待をされるのが大変なんです。
この話は鍵が4つという具体的な数値があるうえ、「家族離散=不幸」という共通観念に触れるので分かりやすいです。
この話の結末は簡単です。大学2年生の1月に父親にNGを出して会うのをやめて、実家を賃貸に出し、鍵が4つから2つになって大幅に悩みが小さくなりました。
しかし、分かりやすさに欠けるものの一番大変だったのは中学3年生から高校1年生の時だったと思っています。何故なら、私にとって家族は分裂していた方が自然な状態で、一緒にいた時の方が窮屈な感じだったからです。
その時のエピソードを記してみます。
ドア前で待ってる謎のガキ
中学3年生の頃から、他人と正面から鉢会いたくなくて、駅から下校の時は必ず人通りの少ない通りを俯いて通っていました。
そして、マンションも地下入り口から入り、人がいたら、その人がオートロックのドアを開けてから15秒くらい待ってエレベーター前に人がいなくなってから入るようにしていました。そして、廊下の中腹にある非常階段を使って家まで帰っていました。
この習慣は高校1年生でコロナ禍で休校になるまで続きました。
一度、ドア前で待っていたら、スーツに革靴を履いた入居者から「追随入館じゃないですか。」と怒られて、鍵を見せたら不満そうに納得してくれましたことがありました。
このとき、自分にはこれから「大人」になって就業するのは無理なんだろうなと思いました。
まぁ人に話せるようなエピソードではないですね。何が大変で、どうしてこの心情に至ったのか分かりにくいからです。
その時の私の様子を説明します。睡眠不足、家庭の不和、学校への不適応がみられました。
まず、実家では兄と二人で二段ベッドで過ごしていたのですが、兄は私が寝たいと思って22時ごろに電気を消していても大きな足音で部屋に入ってきて
夜遅くまでライトをつけてパソコンを見ていました。そのため、私は睡眠バランスを崩しがちでした。当時私は言葉での意思表示がまるっきり出来ない子どもだったので、二段ベッドの上から、そのライトのスイッチを消したり、ライトを隠したりするなどして意思表示したのですが、消してもらえませんでした。
そのため、眠りへの困難が出るたび兄への憎しみが高まっていました。家を出て精神科に通い、デービゴをもらえるようになる大学2年生になるまでほとんど口を利かないような関係でした。
そして、母に一度言葉で暗くないと寝れないと言いましたが、他人の感覚と自分の感覚との違いを理解するのが難しいタイプなので、
「この明るさなら別に寝れるでしょ」と一蹴されてしまいました。私が不調を訴え精神科に行きたいと言った時も、「精神科の薬を飲むと頭がおかしくなる。」と一蹴されました。自分の気持ちは取り合ってもらえないという感覚になりました。
次に、両親の関係もひどく、とくに母から父への虐待でストレスが大きかったのもあると思います。父が立てる物音も聞くのが嫌で何度もけんかしており、父が11時ごろに家に帰ったとき、まるで泥棒のように静かに家に帰っていました。
今から考えても、不自然なやり取りだと思っています。
また、学校生活も上手く行っていませんでした。中2の幾何がエウクレイデスの公理系をベースに授業をすすめるような進学校に入ってしまったので、なかなか周りの学業のレベルについて行けませんでした。
そこで、教員への不信感が高まっていきました。何故なら、「授業が分からない。」と私が先生に言ったら「今は、高校2年生のレベルをやっている。高校生になったら、同じことを繰り返すから分かるようになる」と言われたり、
別の先生に授業中問題だけ配られたとき、「どうすればいいかわかりません。」と言っても、「これは簡単なので出来ますよね。」という感じで取り合ってくれているように感じにくいという状態だったからです。
そして、クラスメイトとの関係も上手く行かず、成績を自慢してくるイヤミな生徒が授業中うるさくて、先生も止めてくれなかったので、机をひっくり返して応戦したことを覚えています。
そんなこんなで精神的な不調がいくつも現れるようになりました。例えば、文章の読み書きが遅くなる、同じ嫌な気持ちを繰り返して気持ち悪くなる、対人恐怖が強くなる。などです。
この様子を説明してはじめてさきのエピソードは理解できるかな。と思います。人混みを避けて下校したり、エレベーター前に人がいなくなるのを待っていたのは全て人と鉢会うのを避ける為です。また、怒ってきた相手の恰好に注目して「大人」 との隔絶を感じていたのは、イメージしていた「大人」そのものなスーツに革靴の入居者が、私を正すべき「犯罪者」のように扱ったと思っていたのだろうと思ったからです。
分かりにくいから困難が軽くなるというのは、一般にあることでこの前地上波で「私は、趣味が散歩で20㎞程歩くことがある。」とメンヘラ系のアイドルが言っていました。本人も出演者も深刻さを理解していないんです。
というのも、困難が強い人の適応として、敢えて体に負荷をかけることをやりがちなんです。その論理が知れ渡っていないだけなんです。
ドア前時代を乗り越えた方法も伝えられればいいんですが、大学受験を乗り越えたり、同人誌を書いたり、いろんなイベントが必要でとにかく分かりにくいんです。 今度それについて、丁寧に言葉にしてみますね。今日は、船酔いが酷くて頭が痛いので、もう終わっておきます。謎のガキ時代とはうって変わって、全てをひっくり返して船に乗っているんです。
Last modified on 2026-10-09